変な先生
昔から変わっていたので、「変」と言われてきたから、自分は変なのだという思い込みがある。
自分は変でもいいとは思っているけど、人から「変」と言われることを結構恐れていて、言われる前に「私は変だから」と話していることに気づいた。
そして、自分の子どもが人から「変」と言われることも恐れているから、言われないようにしてほしいと思っている。
私のように悲しい思いをして欲しくないから。
でも子どもは「変」でも良いと思っていて、私が勝手に心配しているだけなのだとも気づいた。
変わっていることは「変」ではないのかもしれない。
変でも良いなら何を言われても良いはずなのに、幼少期に親兄弟から「変」と言われていたトラウマが邪魔をする。
今年はこれを乗り超えようと思う。
私は、自分は変な先生だと思っている。
先生なのに、勉強しろって言わない。頑張れって言わない。
十分頑張ってる人に、散々頑張れって言われてる人に、これ以上言わなくても良いでしょ、って思うから。
でも教科持っている時は、形だけは言った。でも言っても無駄だと思っていた。変わるかどうかは、本人次第だから。
今は教科も持っていないし、担任でもないから、責任もない。ただ、生徒のしんどさに寄り添うだけで良い。
私、変だから。
そんな話をしたら、そんな先生がそんな風にそばにいてくれたことが、その子にとって一生忘れられない思い出になるかもしれないよ、と言ってもらえた。
学校は頑張るところだから、生徒を頑張らせて成績を上げられる先生が普通で、それをしない私は、変な先生だと思っていた。
でも自分は、変な先生ではないのかもしれない。
「変」について、定義を変えてみようかな、と思えた。
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